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「イキガミ」評論

◆余命があと24時間と宣告された人間は、おのれの痕跡をこの世に残そうとする過程で、今までの人生で得られなかった充足感を得ていく。満足に死ぬためには精一杯生きなければならないと訴える一方、管理社会の恐ろしさを告発する。 (70点)

 自分の余命があと24時間と宣告されたとき、人は残された時間をどう使うのか。かなわなかった夢を最後まで追う者、個人的な恨みを正義にすり替える者、愛する人に役立てようとする者。その当事者だからこそできることと、その人間でもできないこと、それでも確実に迫りくる死の恐怖と闘いながら必死で何かを完遂しようとする。彼らがおのれの存在した痕跡をこの世に残そうとする過程で、今までの人生で得られなかった充足感を得ていく。映画は、満足して死ぬためには精一杯生きなければならないと訴える一方、市民生活が国家に管理される恐ろしさを告発するのも忘れない。

 国家繁栄法のもと、無作為に選ばれた一定の若者が死を予告される。その「死亡予告書」通称イキガミ配達人となった藤本は、ミュージシャン、引きこもり、チンピラと自らの職務を果たすうちに、この制度への疑問を抑えきれなくなっていく。

 成功のチャンスを得てテレビに出演するミュージシャンは、疎遠になっていた元パートナーに謝罪し、彼らの原点だった歌を熱唱することで気持ちを伝える。振り込め詐欺をしているチンピラは盲目の妹に自分の角膜を移植できるように奔走する。彼らのエピソードはイキガミを受け取った若者の感情を非常にリアルに表現し、その思いを成し遂げようとする行動が感動的に描かれているが、この監督が本当に描きたかったのは引きこもり男の顛末ではないだろうか。

 引きこもり男の母親は国家繁栄法の熱烈支持者。国政選挙に立候補し、息子に届けられたイキガミすら選挙演説に利用する。もともと母親の教育に反発し、生きてゆく価値を見いだせなかった男が、イキガミのおかげで最期になすべきことを発見する。それは自分を見捨てた母親を殺すこと。母子の複雑にねじれてしまった関係がさらによじれ、修復不可能になってしまったときに何が起きるのか。藤本は何もできずただ見守るばかり。良識ある人間ならば誰もが心の中で「こんな法律はおかしい」と思っていながら口にはできず、たいていは官憲の目を恐れて黙って従っているのに、唯一引きこもり男だけは理由は違っても国家繁栄法のシンボルともいうべき母親に弓を引くという行為に移すのだ。藤本のわだかまりを上司が理解するエピローグにわずかな救いが込められていた。

福本次郎 2008年10月7日

「イキガミ」評論

◆国家繁栄のため千分の1の確立で若者が殺される社会。人気コミックを実写映画化。

 間瀬元朗の同名コミックを、松田翔太主演で実写映画化。国民に死の恐怖を通して生命の価値と尊厳を認識させるため、国家繁栄維持法(国繁)によって千分の1の確立で若者の命を強制的に奪う社会。その瞬間を24時間後に控えた該当者には、人生最後の1日をより充実したものにするための心配りとして、役所から死亡予告証が届けられる。人びとはこれをイキガミ(逝紙)と呼んでいる。主人公の藤本賢吾は役所の職員として、該当者にイキガミを配る仕事をしている。主人公はいわば狂言回しで、本当の主人公はイキガミを届けられた若者たち。映画も3つのエピソードからなる、オムニバス風の構成になっている。

 イキガミの設定そのものにかなり乱暴で無理なところもあるが、これは要するに黒澤明が『生きる』でやろうとしたことを、より極端な形でドラマ化したようなものだ。『生きる』の主人公は自分の余命が残り数ヶ月だと知って、猛然と公園作りに邁進する。『イキガミ』においては自分が余命1日と知った若者たちが、その1日の中で自分の命を燃焼しつくそうとする。自暴自棄になって犯罪に走る者。最後の瞬間に自己実現を遂げようとする者。家族や友人と和解しようとする者。生と死がせめぎ合うギリギリの状態の中で、ギリギリの人間ドラマが展開するわけだ。

 原作の中にも主人公が国繁体制に疑問を感じてそれを口に出すシーンがあるのだが、映画では各エピソードをつなぐブリッジとして、そうした主人公の疑問や悩みを拡大させている。しかしこれが物語世界のバランスを壊して、かえって不自然にしてしまったようにも思う。原作の面白さは、国繁という国家による暴力装置が完全に日常化し、ほとんど誰もその存在に疑問を持つことさえなくなっているという描写にあったのだ。国繁によって理想的な社会を作り上げているはずの物語世界は、じつのところ国繁など影も形もない我々の暮らす世界と何も変わっていないのだ。でも物語世界の人びとは、その制度に何らかの意味があると信じている。それによって社会の秩序が維持され、現実に国家の繁栄に寄与していると信じている。国繁など何ら実効性のないフィクションなのに! こうした『イキガミ』の世界観は、我々が信じている体制や社会制度もまたフィクションである可能性があると批判しているわけだ。

 しかし今回の映画版には、そうした批評性がない。単なる「管理社会のディストピア」になっていて、その世界観が観客席で映画を観ている人びとを打つことがない。この映画にとって最大の弱さは、たぶんそこだろう。個々のエピソードは面白くても、それが観客席の側にある現実と響き合うことがないのだ。観客がこの映画に求めているのは、この映画の世界観や設定が持つ「毒」ではないだろうか。原作には毒がある。しかし映画はその「毒」が、ずいぶんと薄められてしまっているように思えるのだ。

服部弘一郎 2008年10月08日

「イキガミ」評論

◆インチキな偽善的純愛モノよりずっといい (75点)

 初恋の悩みを2ちゃんねるに相談した、あるオタクの実話(掲示板の書き込みなので信憑性は100%ではなかろうが)を映画化したもの。

 主人公は22歳の同人オタク(山田孝之)。彼は今日もアキバ(秋葉原)のフィギュアショップなどを覗いた後、私鉄で帰路につこうとしていた。そのとき目の前で中谷美紀似のお嬢様(中谷美紀)が酔っ払いに絡まれ、彼は思いもかけず彼女を助けてしまう。後日お礼にエルメスのティーセットが届いたことから、彼は自分の高まる恋心を匿名掲示板「2ちゃんねる」に相談するのだった。

 さて、普段は罵詈雑言の嵐を浴びせる2ちゃんねるの名無しさんたちであるが、あまりに切実かつ純情な主人公の様子に、やがてマジレスが飛び交うようになる。ハンドルネーム「電車男」を名乗る主人公は、そんな彼らからのアドバイスを元に、助けた彼女(エルメスと命名)にアタックするというラブストーリーだ。

 この話の面白いところは、まず電車男というキャラクターのもつリアリティだ。彼のようなオクテなオタク男性は、世の中にたくさんいる。きっと2 ちゃんねるの該当スレッドにもたくさんいたのだろう。そして、彼のような男性が、エルメスといういわば「別世界の住人」に好かれるために四苦八苦するというギャップ、困難性こそが、掲示板の住民を本気にさせたと見ることができる。

 そしてもうひとつは、電車男の友人が一人も登場せず、最後まで彼はネット上の顔も知らぬ人間たちに助けを求めつづけるという部分だ。いい年して童貞で、デートの誘い方すらわからない彼も、それがみっともない事だということは理解しており、だから相談できる相手は見知らぬ人しかいない。この現代において22歳で童貞(そしてオタク趣味)という事がいかに男にとって情けないことであるか、電車男もレスする側にも共通認識としてあるわけだが、誰も疑わないその事実こそ、今の時代性を如実に表しているともいえるのだ。

 さて、主演二人のキャスティングについてだが、まず山田孝之は100点といっても良いほどの好演だ。ネットの助言により外見がオシャレに変わっても、態度はまるっきりオタク少年のまま。見ているものに嫌悪感を与えぬギリギリの役作り、そして何度もクスっとさせるコミカルな演技の数々には脱帽である。

 ヒロインの中谷美紀は彼より7歳も年上で、少々年齢的に厳しいかなという印象だったが、何しろ当の2ちゃんねるに「エルメスは中谷美紀似」という電車男ご本人の書き込みがあるんだから仕方ない。最初はちょっと違和感があったが、最後まで見れば「うん、これでいいや」と思える。なんといっても、告白に対する有名な返答場面が、この上なくかわいらしい。この場面ではいわゆる2ちゃんねる用語でいう「祭り」を見事にCGを使って映像化しており、そのアイデアと演出には、私も大いに感心した。

 映像化といえば、本作は掲示板の書き込みを映画化した初の日本映画であるが、実際に全書き込みを読んだ私の目から見ても、実によく整理し、構成したと感じられる。たとえば映画版では、書き込み者を数名の実体あるキャラクターとして簡略化しており(ヒマな主婦や、能天気なオタク3人組、引きこもりの少年など)、彼らを魅力的かつ人間的な存在として描くことによって、「見知らぬ人間からの助言を真に受ける電車男」という特異な構図を違和感無く再現している。

 この物語の大前提である、「同人オタクの電車男が、はたしてエルメスのようなオシャレなお嬢様と仲良くなれるのか」という問いに対しては、自信を持って私は「Yes」と答える。恐らく全女性中、6割くらいはこういう男性を拒否するかもしれないが、世の中不思議なもので、たいていの人間には適した相手というものが存在する。

 ぶっちゃけてしまえば、このエルメスもちょいと変人であることには変わりが無いのだが、やはり二人は出会うべくして出会ったわけで、私はこれほどリアリティある恋愛物語も無いと思う。近年やたらと流行している「セカチュー」だの「韓流」だのといった偽善的純愛ドラマのインチキさとくらべ、「電車男」のもつリアリティ、存在感のいかに強烈なことか。これこそが本物の恋であり、電車男が悩む姿こそ、世の中にありふれた真実のドラマである。

 ……とはいうものの、この映画はオタクの人にとってはかなり「イタイ」映画であることには違いはない。一般社会から彼らがどう見られているかを表現したシーンなど、普通に見れば笑う場面だろうが、当人たちにとってはキツいであろう。

 また、2ちゃんねるならではのAA(顔文字の類)、専門用語も画面に飛び交うので、多少の解説が必要になるかもしれない。そういった予備知識のない、生粋の「エルメス側」の人がみたら、恐らくさっぱり理解できない世界のはずである。要注意だ。

前田有一 2005年5月29日

「電車男」評論

「そのときは彼によろしく」評論

◆映画としては破綻、長澤まさみとしては極上 (30点)

 この作品も、いつもどおりの長澤まさみ映画であった。点数はたったの30点だし、脚本も演出も破綻しまくっているが、それでも彼女は笑顔一発、許してねと笑いかける。なんとなくそれで許せてしまう、それが長澤まさみ映画たるゆえんである。ただし言うまでもないが、彼女のファン以外にはまったく通じない。

 幼い頃、湖畔の廃バスを秘密基地にして遊んだ3人。遠山智史(山田孝之)はその頃からの夢である水草ショップの店長に。五十嵐佑司(塚本高史)は才能を生かして画家に。そして二人があこがれた滝川花梨(長澤まさみ)は、ある日意外な形で智史の店にやってきた。

 山田孝之演じるさえないオタク店長の店に、ある日スーパーモデルに出世した超美少女の幼馴染がやってくる。子供時代に別れて以来の再会なので、山田孝之は彼女が花梨ちゃんだと気づかない。長澤まさみ演じるこの人気アイドルは、それを内心くすくすと笑いながら、正体を明かさぬまま彼の家に強引に居候としておしかける。山田孝之はわけがわからない状況に戸惑いながらも、しぶしぶ彼女と同じ屋根の下で暮らし始める。

 いったいどこのエロゲだよと思ってしまう展開だが、もちろんエロなしキスもなし。しかも9歳の子役にはキスシーンがあるのに、長澤まさみには無しである。9歳相手に清純度で勝るとは恐るべし。おまけに、作品を追うごとにその度合いを増していくんだから清純派女優として常識破りだ。スタイル抜群の宿無し美人を家に泊めて何も起こらないなどという、ロードオブザリング以上のファンタジー映画を成立させる女優は、日本でいま彼女を置いてほかにいない。

 すっかり死語となった韓流映画に対抗しうるほどの不治の病遭遇率を誇る彼女は、本作でもよくわからない難病にかかる。これがじつに脚本に都合のよい経緯をたどる病気で、その発病タイミングのよさなど、ほとんど神域といえる。

 お涙頂戴の舞台設定が整ったところでオチを迎えるが、これが歴代長澤まさみ映画でも最高峰ともいうべきトンデモ度。まったく同じ髪型とぽちゃ顔であのシーンにOKを出した平川雄一朗監督は、映画にリアリティーを付与することをあきらめたか、投げやりになったか、あるいは史上まれに見る天然のどれかである。病院のベッドに長期間寝ていることが人体にどう影響するか、まったく考えていない二人の脚本家も同様だ。彼らの能天気さが私は本気で羨ましい。

 この映画は、長澤の顔のアップばかりが連発するコンセプトのはっきりした作品なので、彼女の顔が大好きな人に限って超オススメということができる。最前列で彼女の毛穴まで堪能した私のように、長澤まさみを見られるという事以外何も期待していない人なら大丈夫だろう。

 そのスタイルも相変わらずお見事。山田孝之と並ぶと、彼女のほうがデカいというラブコン状態だ。ごくまれに解禁する秘密兵器の大きなバストも、本作では揺らしまくって走るマニア向けシーンがあるので注目だ。それにしてもよく揺れる。

 大きい体をして甘えた声を出すギャップは彼女最大の魅力だが、それ一本に頼ったこうした主演作を見ていると、まるで速球一本で勝負する高校野球のピッチャーを思わせる。個人的には早く殺人鬼役やコメディエンヌとしての長澤まさみを映画で見てみたいが、こんな速球一本の試合もまあ悪くはない。あと何本かはつきあってやるかとは思っているがさて。

前田有一 2007年5月27日

「そのときは彼によろしく」評論

「クローズZEROⅡ」評論

◆邦画の好調を象徴するような、ドメスティックな娯楽作品 (70点)

 『クローズZERO II』は決して悪い作品ではないが、前作のほうがずっといい。このパート2が面白いのは、ひとえに前作からのキャラクターの魅力による。それぞれの人物の魅力をしっかりと描き分けられている点が、シリーズ成功の要因といえるだろう。

 だが、今後もこの路線を続けるならば、三池崇史監督は各キャラクターのドラマを描き分けるだけでなく、戦い方にまでその個性を反映させる何らかのアイデアを出さねばなるまい。

 なぜなら『クローズZERO II』のケンカシーンは、ちょっと目を離すと今戦っているのが誰だかわからなくなるほど、みな同じ動きをしている。本気でこれら格闘シーンを盛り上げたいならば、本作のように「三池崇史監督の分身A」VS.「三池崇史監督の分身B」の繰り返しではダメだ。この作品には、テクニシャンの監督がチョチョイと仕上げたような、器用だが底の浅い印象があり、そこはマイナスとしたい。

 いまだ完全なる鈴蘭制覇を果たせない源治(小栗旬)は、事情を知らずに休戦協定中の鳳仙学園にケンカを売ってしまう。両校の平和は破られ、鳴海大我(金子ノブアキ)はじめ、強豪ぞろいの鳳仙学園の猛攻を前に、源治率いるG・P・Sは崩壊寸前となる。そんな中、源治のライバル芹沢軍団の芹沢(山田孝之)も、いやおうなしに抗争に巻き込まれていく。

 熱いオトコのケンカ映画第二弾。ヤンキーものは地方の収益が見込まれることもあって、映画界では注目ジャンルとなっている。女の子客にとっても、お目当ての美少年がボロボロになって戦う姿は、さぞ胸キュンであろう。

 この映画には一般人はまったく登場せず、警察も先生方もどこかに消えてしまって出てこない。出てくるのはヤンキーとヤクザだけ、生活観まったくZEROな、素敵なファンタジー世界である。

 それだけに、アクションにも見せ場にも、もっとガツンと濃い味がほしかったところ。まとまりの良さなど、本シリーズには似合わない。

 ただ、原作譲りのカッコイイ男たちの友情ドラマにはぐっとくるものがあるし、相変わらずキャラも立っている。下手な洋画よりも、こういう身近な邦画に若いお客さんが流れていくのもよくわかる。

前田有一 2009年4月16日

「クローズZEROⅡ」評論

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