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映画批評サイトの「映画ジャッジ!」

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「ドラゴンヘッド」評論

◆アイドル映画としてはまあまあ (55点)

   松田聖子の娘のSAYAKAちゃんが初主演したSF映画。同名のベストセラーマンガの映画化である。なかなか高い点数の理由は、特撮含む映像の出来が良いというのが理由だ。逆にいうと、それ以外は……、という事でもある。

 オールウズベキスタンロケということで、日本での撮影では難しい、スケールの大きな映像が出来あがった。爆発シーン1つとっても、日本の法律に縛られないので、火薬の量なども大盤振る舞いできたそうである。また、まるごと新幹線や、渋谷駅前の街並を、セットで作ったというのもすごい。迫力満点である。

 ストーリーも、「修学旅行中に新幹線がトンネルで事故った。生き残ったカップル(SAYAKA&妻夫木聡)がトンネルの外に出てみたら、世界が崩壊してた」というアイデアが抜群で、一気に観客の興味を引きこむ。

 だが残念な事に、この映画は役者の演技力のなさと、見ていてしらける子供っぽいセリフ、そして主人公たちがしばしば見せる不自然な行動によって、せっかくの映像とストーリーが死亡寸前である。また後半の、謎の食糧発見あたりから先は、漫画を映画化した場合に良くある、『映像化した途端にリアリティを失い、しらける』の典型的パターンで、オトナの鑑賞には耐え難いものがある。

 まとめとして『ドラゴンヘッド』は、邦画としては良くできた特撮映像、これを見るだけで満足できるという、高校生くらいまでの若い方にはすすめたいが、ストーリーや役者の演技、完成度といった映画としての総合的な満足を期待する方には向かないだろう。アイドル映画プラスαだと納得した上で出掛ける事をアドバイスしておく。

前田有一 2003年8月24日

「ドラゴンヘッド」評論

「鴨川ホルモー」評論

◆葵祭、祇園祭、古い町並みと神社仏閣、そして大学に通う学生たちの昔ながらの下宿生活。革新よりは伝統を、再開発よりは歴史を選んだ京都の街、いまだに残る神々やオニといった妖しげな世界がそこに住む人々と共存している。 (50点)

 葵祭、祇園祭、古い町並みと神社仏閣、そして大学に通う学生たちの昔ながらの下宿生活。革新よりは伝統を、再開発よりは歴史を選んだ京都の街、いまだに残る神々やオニといった妖しげな世界がそこに住む人々と共存している。映画は秘密結社のような学生サークルに入った新入生が、その秘儀に惹かれていく過程で恋や友情を育てて人間的にも成長していく青春ドラマの体裁をとりながら、観光地だけではない京都の顔を紹介する。ただ、登場人物が京都弁を話さないのはどういうことか。京都の魅力は京言葉と一体となってこそ一段と輝きが増すはずなのに。

 京大に入学した阿部は友人の高村と共に青竜会というサークルに入部する。そこはホルモーと呼ばれる、小さなオニが集団で戦う謎の対抗戦を仕切る会。阿部たちは入会のためのイニシエーションを受け、ホルモーで使うオニたちの言葉を習得する。

 体長15センチほどのオニの群れの統率を取るために学生たちが身につけるオニ語が、ユニークな作品世界を構築している。独特の発音にあわせての決めポーズを 10人の学生がぴたっと決めるシーンは壮観。特に栗山千明のスリムな長身と指先まで神経が行き届いた長い手が、モダンダンスと日本舞踊を合体させたような奇妙かつコミカルなボディランゲージでオニたちを自在に操るさまはこの作品随一の見所だ。

 やがてホルモーリーグ戦が始まるが初戦は高村のミスで惨敗。そこから青竜会は2派に分裂、神々の怒りを買う。怒りを鎮めるにはすばらしいホルモーを戦うしかなく、青竜会は紅白戦を行う。このあたりになるとメンバーの戦術は格段に進歩し、自分のオニたちを指揮しながらも味方との連携も欠かせない高度な戦略も必要になってくる。戦場は広場から市街地、路地から川岸にまで広がり、古都のさまざまな風情を見せてくれる。しかし、仲間内の主導権争い、それも色恋沙汰が原因では、せっかくの物語の壮大なスケールが生かされていない。肝心の4大学対抗戦という伝統行事をクライマックスにもってきて欲しかった。

福本次郎 2009年4月18日

「鴨川ホルモー」評論

「イキガミ」評論

◆アナタは24時間後に死にますという「イキガミ」が届いたら? (90点)

 漫画の映画化が最近目立つが、よもやこれほど高く評価できる作品に出会えるとは思わなかった。

 現代日本に良く似た場所。この国では、「国家繁栄維持法」により安定した社会が実現している。それは全国の18から24歳の中から、1000分の 1の確率で無作為に選び死んでもらう制度。通称・逝紙(イキガミ)を当人に配り、24時間後の死亡宣告を行う公務員(松田翔太)は、今日も様々な人間ドラマに立ち会うことになる。

 わずかな犠牲で誰もが命の大切さを実感するこの制度により、犯罪も減り、活気あふれる社会が生まれるという設定。小学校入学時に国民へ一斉接種されるナノカプセルにより、誰かに理不尽な死が訪れる。イキガミを受け取った若者は、はたして残された24時間をどう過ごすのか。

 瀧本智行監督は、SFの作り方を良く理解しているようだ。この手の思考実験ものは、とっぴな設定の影響を人々に予想させ、その後提示することで楽しませるのが基本。そのため、最初の設定以外のリアリティはより厳密に作られなくてはならない。そうでなければ、子供だましのバカ映画になる。

 その点、映画『イキガミ』は様々な工夫が凝らされており、大人も安心して見られる。

 たとえば一つだけ挙げると、イキガミをもらったある若者が、レストランに行く場面がある。どうせ死ぬなら最後に、食べたことのない高級料理をというわけだが、ここで注目すべきはウェイターの態度の変化だ。この短い場面の中には、「国家繁栄維持法」をこの作品世界の人々がどう受け取っているかが、コンパクトに描かれている。そして監督は、青年とウェイターの態度のたった二つで、この世界に対する「親しみ」を観客に生じさせ、同時に現実味を持たせてしまった。

 監督はこうしたディテールを積み重ねることで、粗悪な実写SF映画にありがちな非現実感、バカらしさのようなものを払拭。観客が人間ドラマに集中できる土台を作り上げた。このジャンルにおいては、相当な腕の良さだ。「デスノート」の映画版は、彼のような才能にこそ任せてみたかった。

 この原稿を執筆する時点で原作マンガを未読なので、比較については別の機会に譲るが、私はこの映画版から「負け組よ、あきらめるな」との、瀧本監督による力強い激励のようなものを感じ取った。

 残り24時間の命なら、人間はこれだけ輝ける。君らにはもっと時間があるじゃないか、というわけだ。たしかに残り1日に比べたら、無限の可能性があるように思える。

 なにしろこの奇妙な世界設定が、現代日本への皮肉になっていることは疑いない。

 金持ち優遇、労働者を痛めつける「改革」を押し進め、社会の格差を広げた一方、落ちこぼれた人々への処遇は年々ひどくなるばかり。24時間後との明確な区切りはないが、国に見捨てられ、のたれ死ぬ人々はどれほど多いだろう。それは、1000人に1人どころではないかも知れない。カプセルで死ぬか、じわじわと搾取されて死ぬかの違いがあるだけだ。

 ならば私たちも、この映画に出てくる「死亡予定者」のように、立派に生きることができるはず。映画の中の人物たちの行動に、現実味と説得力があるだけに、監督が投げかけるこのメッセージも素直に受け取ることができる。社会批判も忘れてはいないが、本作はそれだけにこだわらない。現実は現実と受け入れた上で、どう生きればいいかを伝えている。こうしたひねったやり方で前向きな主張を行うというのはとても良い。

 なお本作は、星新一のショートショート「生活維持省」と世界設定が同じため、盗作ではないかとの指摘があり、著作権者との間でトラブルになっている。その結論はまだ出ていないが、先ほど書いた時代性豊かなテーマの面からも存在価値が高いだけに、とんだミソがついたという印象だ。

 ダラダラと一人のケースを描くのでなく、イキガミ配達人を語り部として何人分ものドラマを入れ込んだ構成が良い。2時間の映画3つを三倍濃縮したかのような、無駄のないハイテンポな展開が気持ちいい。と同時に、様々なアラが隠れるという副効能も生んでいる。

 『イキガミ』はじつに優れた映画作品だ。上記のような解釈を無理に行わなくともいい。表面上の感動ドラマに涙を流すだけでも、(無意識のまま)監督のメッセージは心に届くはずだ。いい映画は、ちゃんとそうしたつくりになっている。

前田有一 2008年9月26日

「イキガミ」評論

「イキガミ」評論

◆余命があと24時間と宣告された人間は、おのれの痕跡をこの世に残そうとする過程で、今までの人生で得られなかった充足感を得ていく。満足に死ぬためには精一杯生きなければならないと訴える一方、管理社会の恐ろしさを告発する。 (70点)

 自分の余命があと24時間と宣告されたとき、人は残された時間をどう使うのか。かなわなかった夢を最後まで追う者、個人的な恨みを正義にすり替える者、愛する人に役立てようとする者。その当事者だからこそできることと、その人間でもできないこと、それでも確実に迫りくる死の恐怖と闘いながら必死で何かを完遂しようとする。彼らがおのれの存在した痕跡をこの世に残そうとする過程で、今までの人生で得られなかった充足感を得ていく。映画は、満足して死ぬためには精一杯生きなければならないと訴える一方、市民生活が国家に管理される恐ろしさを告発するのも忘れない。

 国家繁栄法のもと、無作為に選ばれた一定の若者が死を予告される。その「死亡予告書」通称イキガミ配達人となった藤本は、ミュージシャン、引きこもり、チンピラと自らの職務を果たすうちに、この制度への疑問を抑えきれなくなっていく。

 成功のチャンスを得てテレビに出演するミュージシャンは、疎遠になっていた元パートナーに謝罪し、彼らの原点だった歌を熱唱することで気持ちを伝える。振り込め詐欺をしているチンピラは盲目の妹に自分の角膜を移植できるように奔走する。彼らのエピソードはイキガミを受け取った若者の感情を非常にリアルに表現し、その思いを成し遂げようとする行動が感動的に描かれているが、この監督が本当に描きたかったのは引きこもり男の顛末ではないだろうか。

 引きこもり男の母親は国家繁栄法の熱烈支持者。国政選挙に立候補し、息子に届けられたイキガミすら選挙演説に利用する。もともと母親の教育に反発し、生きてゆく価値を見いだせなかった男が、イキガミのおかげで最期になすべきことを発見する。それは自分を見捨てた母親を殺すこと。母子の複雑にねじれてしまった関係がさらによじれ、修復不可能になってしまったときに何が起きるのか。藤本は何もできずただ見守るばかり。良識ある人間ならば誰もが心の中で「こんな法律はおかしい」と思っていながら口にはできず、たいていは官憲の目を恐れて黙って従っているのに、唯一引きこもり男だけは理由は違っても国家繁栄法のシンボルともいうべき母親に弓を引くという行為に移すのだ。藤本のわだかまりを上司が理解するエピローグにわずかな救いが込められていた。

福本次郎 2008年10月7日

「イキガミ」評論

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